今日は知人の葬儀に行ってきた。この葬儀や墓と言うのも宗教行為である。葬儀の平均経費は今や 230万円にもなるとTVが言ってたが、冷静に考えるとこれも面妖な話だ。死んだ者をいくら手厚く葬っても、その者はどうなるものでもない。遺族・知人が心の整理のために死者に別れを告げる程度であれば、道具立ては何もいらないはずだ。プロテスタントでは墓穴に葬って牧師が簡単な祈りを上げるだけである。魂はもう旅立っているので残された遺体は抜け殻に過ぎないという考えがあり、これが儀礼を簡素にしている。日本の葬儀は、ほぼ仏式である。儀礼が大掛かりになった原因は、その歴史にある。中世の荘園制がくずれ農村が形成される時に、寺院は収入源を貴族から農民へとシフトさせた。その方法として仏教界は葬儀を通じて檀家を組織しようとした。そのとき地獄を強調したのである。その典型が十王信仰である。死者は、地獄で十人の魔王からの責苦を受けるという。最後に閻魔王が鏡を覗くと遺族の葬儀追善の様が映る。その衷心の程度で死者が極楽に行けるか決まると言うのであるから、葬儀もイー加減では済まされない。宗派の違いによる程度の差はあれ、このミーム(文化遺伝子)の残滓が今も生き残っているわけである。現在の葬儀屋も上手な商売をしたようだ。ただ、葬儀は上げる側の権力継承や財力誇示という面もあるように思うので、宗教行為を基層におく社会的欲求の表現であると考えられる。古代の王は神に近い存在であったから、葬儀は継ぐ者の聖別の儀式でもあった。現代の国葬は人を国家につなぎ止めるためのショー的演出であるように思う。そのミニチュアを庶民が真似るのである。とは言え、そんな欲求を持たない庶民には、経費がかかり過ぎるのは迷惑な話である。豪華に安価に出来ないものなのか?