今日は親類の病気を見舞った。いろんな検査を受けてるようだ。付き添いしている患者の連れ合いは、半分パニック状態みたいだ。医者や看護婦の説明や対応も悪かったようで、直接、私が医師に話を聞いたところ、どうも患者と医師の間に距離があり、不信感があったので、他病院の紹介をして戴き、転院手続きをとった。かの病人は、大企業をリタイアし今は地域の仕事に専念していた。老人会・町内会・檀家総代と、昔取った杵塚、事務能力の高さを生かして、精一杯の貢献をしていたのだ。彼岸の準備をほぼ万端整え、老人会の行事をこなしている最中に倒れた。私が見舞っているときに、和尚ともう一人の檀家総代も見舞いにきていた。すると今まで眠っていた病人は、彼岸に不都合をきたしたことを詫びていた。私には、彼が戦士に見えた。老戦士の姿を見ていて、自分と比較してしまう。私には責任感や真面目さが全くないようだ。が、仕事はソコソコこなす。時に残業したり休日出勤もする。しかし、心の奥で仕事をすることは馬鹿げたことだと思うこともある。これが、彼の姿と比較することで明瞭に表れる。彼の地域活動は全くの無償である。なのに倒れるまでやる。方やソコソコ。その心根は明瞭だ。かといって反省をするわけではない。ほんの少し、心に引っ掛かりができた程度。何かの折、言分けを言おうとする時、心の中にかの老戦士の姿が現れ「それで良いのか」とチクリと刺す。その姿は誰にも見えない。私の表面の意識でも見えない。経験とは、このような小さな引っ掛かりを作ることに過ぎない。しかしこの有無による微妙な違いは、先々を大きく変えるかもしれないし、変えないかもしれない。人生ゆえに・・・静かな夕暮れ、休日のおわり。もの想う季節のはじまりである。