占いは信じないが受け入れているというのが、今の世間の姿である。占いは人を分類するが、現実には人間の性格を同定しているのではなく、誰にでも当てはまる受け入れやすい性格を提示しているに過ぎない。これを「貴方だけ」と言って提示すると、単純にそうだと思ってしまう性質を人は持っているようだ。この心理的な仕組みが、性格判断の根拠である。この誰にでも当てはまる言葉は、倫理的な規範で一般に受け入れやすいから占いを求める者は、一旦は受け入れ自分の特殊性を埋没させ、そこに自分を投影して、占いが語るキーワードから自分の物語を作る。そしてこの物語の視点から現実を見るように認識を再構成する。だから占いは当たるのだが、この心の動きは宗教も同じである。特に女性は社会的に受動的であることを倫理として植えつけられていることが多い。すなわち外圧に敏感なのである。また未知なる未来に対しての不安も強い。この不安を解消してくれる言葉が占いで、その占いの言葉による判断に基づいて個々人は自分の物語を作ってゆくようだ。占いを媒介として世界を解釈すること。これが、占いを信じないが、受け入れているという状態を意味する。占いの論理として「世の中に起こる現象は原因と結果という糸でつながっている」という認識がある。これは、物理の世界で因果律を追求した科学と似ている。ただ、占いの論理は、偶然性・時期・原因と結果を説明しようとする。そこには物語の論理があり、占いの論理は物語に収束する。その因果律を伝える力が「占いの力」なのだろう。占い師の形容が、ややマニアックな知識の披露をしながら、賑やかに会話調で表現されている。古館伊知郎のプロレス中継のようである。宗教や科学を語るには軽いが、占いというカスミのような文化現象を掬い捕るには案外、この軽さが丁度いい。占いの原理・方法及び歴史的背景・展開をまったく考慮しないで、これらを振り返ってみると、私の未熟さが恥ずかしい。