意見の衝突、見解の相違などは各人の経験や環境の違いから当然起こる。それは、決して相手の人格を否定したり憎くて起こるものではない。人によっては異論を唱える時に攻撃的になったり、怒りの感情と共にぶつけてくるタイプの人間は、反対意見を言う時に、相手の意見を頭から否定して持論を大声で繰り返したり、何故か感情的になり、自分の人格を否定されたの如く怒ったりする。そうなると、こっちとしても議論する気にもならず、ただ相手の感情に嫌悪感を覚えるだけである。「売り言葉」に対して「買い言葉」ができないタイプの人間だと、あとあと思い出しては、あの時こう言えばよかった、と後悔すること頻りである。ただその場では、相手の「負の感情」が感じられて、自分が当然に反撃や反論ができない。理不尽な苦情電話・家族との言い争い、社内での人間関係などで幾度もそういう場に直面する。そういう事がある度に、無力感というか脱力感というか、世の中には「自分と常識が全く違う世界の人」が多いことに驚かされる。だから「話せばわかる」といのは無く、話してもわからない人はわからない。私は人間的に未熟だったせいか、そのことが実感としてわかったのが35歳を過ぎた辺りだ。そうなると、「誠実に話す」よりもいかに自分に「危害を与えない」ように立ち回るかを考える。だが、それが非常に「疲れる」。相手の弱みに漬け込んだり、権威を振りかざしたり、物事そのものよりも、相手を「へこませる」権謀術数を駆使することになるからだ。そんなことばかりしていると磨り減って疲弊してしまうのだ。もっとシンプルに行こうと切実に思う今日この頃でした。