東京都知事で作家の石原慎太郎の「法華経」という本を読んだ。都知事としての彼の自己顕示欲の強さには辟易するが、単細胞の私には判りにくく、なぜか、「自分はこんな事も知っていていろんな経験しているんだ」っていう自慢話みたいなものに思われた。彼の都知事としての手腕は決して非難しないが、彼の父性的な強さやスタイルは、内面の弱さのカモフラージュではないかとさえ思った。少なくとも彼は法華経によって、自分の存在を認識し、物事の事象を因果応報の流れのなかで捉えることができるのだろう。最後の瀬戸内寂聴氏のあとがきも、どうも胡散臭いような・・・やはり、仏教は難しく、奥が深く、高層の原本を自分でたどるしか理解できない。誰かの理解を通じて読み聞かされると、フィルターを通してその者の概念が反映されてしまう。あとは、五感以外で仏を感じることができるか?座禅やら修行がその為にある。私の場合、自分の仕事に没頭し、職人の域に達することがすなわち修行である。仕事が仕事を仕事する。あれもこれもと、やらねばならぬこと・やりたいアイディアなどで目の前の仕事がおろそかになりがちである。今、現時点での仕事に無心に取り組む事が必要だ。